メッセージ
三度目となるアジア牧師セミナーに大きな期待を膨らませて羽田空港国際線ターミナルから飛んだ。今回の参加には大きな試みがある。1つ目は、今までの成田発の反省、つまり国内移動時間の短縮は、旅全体の疲労軽減から大きな意味がある。2つ目は、金沢キリスト教会のメンバーを連れて行くことである。牧師セミナーであるから、対象は限定されているのだが、このセミナーの主参加団体である台湾教会の先生方を見ても、そうではない方々も見受けられ、今年は、このセミナーに同じように3度目参加の京都の藤林師と相談し、教会内のこれはと思う信徒を動員することにした。セミナーの恵みは大きい。そしてその恵みを送り出してくださった金沢キリスト教会に押し流すのだが、一人より二人と、人数が多いほうがより豊かに立体的にその恵みを金沢キリスト教会に還元できると昨年より考えた。今年は私を含め6人が金沢キリスト教会からこのアジア牧師セミナーに参加することとなった。
2月25日朝9:45、羽田空港国際線ターミナルに集合。A姉は途中何を勘違いしたのか、「***」で降りてしまった!羽田空港と思ったらしい。その日は雨で、ダイヤルは乱れ、やっと待った次の電車に乗り込み、羽田空港駅へ到着。駅からシャトルバスに乗り、国際線ターミナルへ到着。既に本体はチェックイン手続きに入っており、ぎりぎり滑り込みでA姉も手続き完了。手続きを前後してわずかなY(円)をW(ウォン)に換金。昨年よりレートが倍に!脅威の経済崩壊がこんなところに・・・しかし、恵みにより我々は倍の額に換金であるから、現地での生活は楽になる。セミナーの恵みは、既にここから始まっていた。
そもそもなぜ、このアジア牧師セミナーに参加するに至ったのか。4年前の秋に、ヨイドより船津行雄師に連絡があった。日本の牧師先生方を招待したい、というのである。そこで、船津行雄師は、同世代の友人牧師たちに声を掛けた。しかし、同世代は既に若くない。そこで、その話に興味を持ったのが30~40代の牧師たちであった。先方の主催者側も、当初は日本のキリスト境界の大御所たちが訪問することを期待していたようだが、実際に来たのは若造だったので、拍子抜けした様子も感じた。しかし、先方にある言葉を継げると豹変し、待遇は一気に良くなった。こう伝えたのだ。『今回、我々の歓迎を感謝します。我々が、明日の日本のキリスト教会を切り開く者たちです。未来のその鍵は既に元老牧師先生方より引き継いでおります。ご安心ください。』と。
そこから、我々はこのセミナーに主役として参加するに至ったのである。初回は、チョー先生が主催する晩餐会に台湾牧師たちと共に日本人牧師を代表して出席した。昨年は、チョー先生が主催する晩餐会において、長年日本宣教に携わったリム長老の口利きで、小生はチョー先生の前に導かれ、特別の按手の祈りを賜った。その霊の油注ぎは、金沢キリスト教会2008年のすべてのミニストリーに還元している。いつも、「お父さん、お母さんは元気ですか?」とチョー先生は優しく、にこやかにお声を掛けてくださる。しかし昨年は真剣な目をされていた。「聖霊が共にこの若き牧師と共にいて、しるしと不思議をなし、福音を語り、魂を救い、病を癒し、悪霊を追い出すように。神の国を日本の地にもたらすように」と日本語でお祈りしてくださったのである。その時から、2009年の日本語部教会のテーマは「福音」に絞られ始めた。
今年も期待する。救い主、癒し主、教会の頭、永遠の神の子、主イエスキリストに期待する。
金沢キリスト教会牧師 船津信成
久々に脳みその中がぶっ飛んだ!現象におけるショックではなく、神学的アカデミックな意味での情報処理に、CPUが追いつかない。所謂メモリー不足状態で、HDがカチカチなっているが、ディスプレーが止まっている状態だ。タスクマネージャーを見る限りは、CPUは動いているようだが、一部スリープ状態もあるようだ。あー、再起動が必要だ。しかし、マウスの指示がスタートのアイコン上に移動しても、アイコンが動かない。困った!焦りがつのる。ここまでくると、強制終了か??Alt+Ctrl+Del??ヤバイ・・・
PCを触る方ならちょっとわかる話・・・触らないならチンプンカンプン・・・失礼しました。要は、脳みそ思考停止状態になった。CBCのブロックセッション第1週は、小生の敬愛するダビデハイムス師の講義受講をしたのである。コース名は、「今日における聖書神学の課題」である。いやー内容が深い。深くて、感動である。深遠なる神学の学びに、ありったけの装備を装着し、ダイビングに備える。確実に備えたかったが、誰かが後ろから突き飛ばした感じがした。慌てて、シュノーケルのみ口にくわえて深海へと進む。潜水しながら、装着し忘れていた作業をゆっくり行う。教室では、ハイムス師の放つ強大な海流に飲み込まれないように、ノートをあけて、必要アプリケーションを立ち上げる。聖書、注解書、インターネット、・・・あらゆる装備は万端に。
ぶっ飛ぶ内容に、脳みそは、なべ底をかき回されるような感覚すら覚えた。CBC学生は、静かに受講する。凄いなー、みんなこんなぶっ飛ぶような講義を聞き分けているのか?一つ一つの内容を、エクスプローラーのフォルダーに仕分けしているのか?すッゲー。恐る恐る初歩的な質問をする。「はい!」ハイムス師は、「ナニ?」とこちらを見る。教室中がこちらを見る。ヤバイ感じ。「あの・・・」質問をする。「それはね・・・」とハイムス師は回答する。なるほど!小生は、合点がいく。強烈な海流を乗り切れるぞ、と確信する。
さらに先週は、感動的な演説が世界を走った。アメリカ合衆国大統領オバマ氏の誕生である。彼の到来はまるで波状した経済と混沌とする世界政治、もつれた教育システムに、因縁の人種差別に光をさした。首都人口40万に対して、この演説を聴くために200万人が駆けつけたと報道されている。
私の心を強く感激させた言葉があった。
"We choose the hope over the fear!"字幕スーパーには、『我々は恐怖ではなく、希望を選び取る』と記されていた。感動的なフレーズである。しかし、厳密にはこの表現はもう少し的確に表現できよう。"over the fear"とあるのだから、恐怖を乗り越えて、つまり、我々合衆国の前には片付けなければならない案件は山ほどあるが、その恐怖を乗り越えて、希望を掴み取ろう!と語っていると読み取れる。つまりこうである。その恐怖、あの問題、この案件と人々は、翻弄し、つまずき、倒れ、嘆き、苦しんでいる。過去を憂え、現在に絶望し、未来に不安を抱いている。クリスチャン生涯にもこのような状況は起こり得る。しかし、キリストにあって、キリストを信じる信仰によって、それを乗り越えて行こう!その希望、その救い、その命を目指して、掴み取ろう!と、私の魂は、ぶっ飛んだ瞬間であった。
金沢キリスト教会牧師 船津信成
『2009年テーマ:福音』
本年2009年のテーマは、昨年10月より祈りの中で与えられていた。ズバリ『福音』である!福音、それは、信じる全てのものに与えられる神の力である。2009年、この『福音』を直球で語らさせて頂きたいと、切に祈り、聖霊の導きを請う者である。
福音、それは「ユーアンゲリオン」と新約聖書では記されている。ユーアンゲリオンは、伝令、または福音伝達者と訳せよう。古代ギリシャの世界において、戦争となれば戦える男たちはみな戦場へ向かった。家族を、町(ポリス)を守るためである。戦場で負ければ、死は戦場の兵士のみならず、ポリスに残された家族にも及ぶことは必定であった。だから、兵士は必死に戦った。文字通り命懸けで戦った。
一方ポリスは、その城門を固く閉じ、男たちの戦況が好転することを祈った。いつ夫が、息子か、父が帰ってくるのだろうか?無事に帰ってくることだけを必死に祈った。
戦場では、戦いが繰り広げられていた。祈りは天に通じたのか、戦況は一気に勝利へとつながった。その時である。将軍が一人の兵士を将軍のテントに呼びつけた。その兵士の仕事が遂に来たのである。将軍は、その兵士にこう言った。「走れ!わき目も振らずわが町(ポリス)まで走れ。決して止まるな。そして城門を叩き、町の住民に高宣言せよ。『我が軍は勝った!』と」
この兵士、別名・ユーアンゲリオンは、屈強な男である。彼は走るために召された。彼はこの使命を遂行するために戦場に立っているのである。ユーアンゲリオンは走った。走った。走りぬいた。わき目も振らず、己の快を棚に上げ、走ったのである。遂に、彼は、城門の前に立った。「開門!開門!」と強く握り締めた拳は何度も硬くしまった城門を打つ。やがて、城門は静かに開き、ユーアンゲリオンは、ポリスの中央広場へと走る。私的な行動は二の次である。彼は家族への挨拶も差し置いた。やがて、男は、中央広場に立った時、人々は恐る恐る集まってきた。老人に女たち、そして子供たち。長老が静かに進み出る。「戦況は?」ユーアンゲリオンは声高らかに宣言した。「我が軍は勝った!」その時である。歓声が一斉にポリス中に響き渡った。人々の顔に笑顔が戻った。先ほどまでの心配は吹っ飛んだ瞬間である。泣いていた女の子の目には笑いが、方を落としていた老人には明日が、人々の心に希望がやってきた。まだ、戦場の男たちを見ていないのに、勝利の宣言は、人々に希望を与えた。その宣言を信じたからである。
ユーアンゲリオン、それは福音伝達者である。語るべきメッセージは何か?聖書はこう宣言する。「我らの救い主、イエスキリストは、既に世に打ち勝った!」と。今年2009年は、この『福音:ユーアンゲリオン』三昧で参ります。ご一緒に主を崇めましょう。福音を体験しましょう。福音に生きましょう。福音を述べ伝えましょう。
金沢キリスト教会牧師 船津信成
さくら、桜、SAKURA
今や世界中がこの名で呼ぶ。さくらは日本の心だ。ある人に言わせれば、桜の下で一同に飲食するのは日本人くらいだそうだ。昨今、メディアで報道される無作法な一部の人々による花見は、周囲の人々の心を痛めが、花見といえば、なぜか桜である。誰も梅の下では花見はしない。また、椰子(やし)の木の下や、国花である菊を観て一同に会して飲食もしない。なぜか、さくらである。
さくらの花はわずかな時間、美しく演出する。日本人は古(いにしえ)の時よりこの花を楽しんできた。桜に関しての言葉で、「さくら散る」など消極的な意味で用いることもあるが、「同期のさくら」など仲間意識を高める言葉もある。「同期のさくら」とてもでもないが英訳は難しい。さくらを観て、あー美しい!そう思える仲間と人は共に会し、飲食するようだ。これを花見と巷(ちまた)ではいう。
さくらの美しさ、長い冬の寒さに耐え、春の訪れを素敵な彩で飾る。バラのような一輪の咲き方ではない。桜の木が、力いっぱい、これでもかと言わんばかりに咲き乱れる。風にのって、普段は色の無い空間すら桜の花びらは彩る。優しい春の風は、人々の心を華やかにする。だから日本人は、さくらが好きなのだ。神妙に菊を鑑賞するもよし。情熱の象徴である薔薇(ばら)を見るのもよし。でも、さくらはどこか違う。一緒に見たい。誰かと一緒に見たい。そして時を過ごしたい。そこには仲間とか、共有とか、友情とか、信頼とか、聖書の恵みがいっぱい詰まっている。
小生はさくらだ大好きだ。
このさくらは、かき乱された心を和ませる。
冷えた心を暖かくさせる。
殺風景な心を彩る。
だから好きだ。
そして誰かと一緒にこのさくらの下に会しした。
さくらの季節とキリストさまの復活のシーズンと同じであることに、日本人クリスチャンの心が疼(うず)く。妙に嬉しい。さくらの美しさ、その華麗さ、一瞬の開花、そして力強さ、人々を寄せ集める吸引力。どれもこれもキリストさまそっくりだ。キリストさまには大変ご無礼仕(つかまつ)るが、日本人の心にピタッとくるものを感じる。
あなたの心にさくらが、咲いていますか?このさくらの下に大切な人たちと一緒に会したいですね。
金沢キリスト教会牧師 船津信成
その日、家族・親戚が一同に会した。既に冷たくなった祖母を病院から我が家へ迎え入れ、祖母の体は動くことはなかった。当時小学校4年生の小生は、死というものを強烈に体験した瞬間であった。祖母が死んだ。紛れもない事実をどう受け止めるべきか、子どもの小生には戸惑いすら感じた。遺族が泣いていた。特に母は、自分の母親を天に送るという積極的な死の意味を知ってはいたが、悲しみという消極的な感情をも同時に胸に合わせ感じていた。
中1の春、祖父が亡くなった。風邪をこじらし、64歳で天に召された祖父は、小生をいつもかわいがってくれていた。祖父の死は、13歳の少年には大きな問いとなった。こんなに早く召されるとは。やさしい祖父の顔がもう見れない・・・悲しかった。
教会勤務者になった。スタッフとして恵みの生活をしていた。秋になった。家内の体には、最初の子どもが身ごもっていた。既に女の子であることは知っていた。9ヶ月検診を終えた日、「順調です」と医師は私達夫婦に微笑をかけた。2日後、胎児の心臓は止まった。両足はワナワナト震えた。どうにもこうにも答えが無い。誰にどうして?と聞きたいが、それすら許されぬ状況だった。主に従い、献身して頂戴したものは白木の箱一つか?!悲しみと苦しみ、これ以上ないと思われる激しい苦痛が心身を打ちのめした。胎児は死体となってこの地上に産み出された。一ヶ月後、墓の前に立った。なぜか?墓も答えぬ。誰もこの質問に答えなかった。
Iコリント15章はキリストの復活を力強く語る。しかし、パウロはそれにとどまらない。復活は全ての者が体験するというのである!世の終わりに、ラッパの響きと共に、全ての者が神の前に立たせられる。みな甦る!すごい!再会がかなう。かわいがってくれた祖母に会える。やさしく頭をなでてくれた祖父に会える。会話を一度も交わすことが無かった娘に会える。甦るのだ!何を話そう。何を語り合おう。寄り添うだけでも十分だ。そのぬくもりにもう一度触れたい。甦るのだ。
そうだ。自分も甦るのだ!自分もいつかは死ぬが、世の終わりに甦る。誰と話そう?誰に一番会いたい?祖父か?祖母か?娘か?両親か?家内か?子どもたちか?大いに楽しみだ。
復活したら誰に会えるのだろう?誰が誰だとどうやってわかるのか?嬉しい心配がある。でも一番会いたい人がいる。どうしても顔と顔を合わせて話したい方がいる。この方は最初に甦った方。甦りの初穂である。白い衣を着、光り輝く剣をもっている。正義の天秤を持ち、真の光を照らす。この方がきっとおっしゃるだろう。「墓から出よ。甦れ。永遠の命によって我が御前に立て。そして顔を見せよ。お前の顔が見たいのだ。」
あー、キリスト様に会える。祈りの中でおぼろげにしか感じなかったキリスト様に会えるのだ。それも愛する家族と一緒にキリスト様に会える。楽しみだ。キリストの血を受けた者たちは、天国へ招かれている。天国へ行くために甦るのだ。素晴らしい招待だ。最高だ!それも1人で行くのではない。愛するも者たちと一緒に行けるこの喜びは、キリスト教の最高の醍醐味だ。再会は最高のシチュエーションによって演出される。
キリストの復活は、我が復活でもある!
金沢キリスト教会牧師 船津信成