週刊カルデア

土砂降りの雨が、奇跡的にあがった。30人近いユース科の生徒と教師が、高校3年生を送り出すために、八景島に集合した。小生にとっても久々の八景島である。ウキウキ感が周囲を漂わせる。10:15から始まった主任&会長会議をなんとか11:15に終わらせ、一同は八景島へ移動。駐車場に入れ、長~い橋を渡る。これが八景島へ入るイニシエンション。

ユース科らしくバイキングのレストランへ入る。アモス書に出てくる主の日のさばに、蝗の大群がやってきて大地を多い尽くし、作物を食い荒らす。そこに残るものは無い・・・あ~恐ろしい後継である。虫扁に皇と書いて「イナゴイ」。もし人扁に皇と書いたら・・・ユース科になるのだろうか???想像しただけでも恐ろしい。苦笑

しかし、ランチバイキングに現れたその集団はカウンターの上に並べられた食物をあっという間に食い漁った。次から次へと店員が食を持ってくる。しかし、彼らの胃袋の方が圧倒的に勝っていた。それはまことに恐ろしい光景でもあった。しかし、裏を返せば気持ちのいい話でもある。ユースが食が細くてどうする!彼らはまさに食べるために生まれてきたようなものだ。食べ、寝て、また食べる。決して非聖書的な話でもない。エリヤがカルメル山頂上決戦の後、悪妃イゼベルに追われて逃亡する。彼は自殺願望にとらわれる。そこへ主が彼に食を与える。彼は眠る。再び御代りが提供。食べて、寝て、食べる、という原理が働く。そしてエリヤは立ち上がり働いた。

ユース科も似た原理を持つようだ。その蝗の大群?は食い尽くすべき獲物を食い尽くしたので、緑の広場へと移動。食べた後は運動だ。久々に遊んだ。走った。汗かいた。「ドロケイ」遊びだ。何十年ぶりだろう。走った、走った!しかし、周囲には歩いているようにしか見えなくなっている私が悲しい。
しかし、本人の中では誰がなんと言おうと「走った」のだ!先攻後攻、ともにあっさり捕まる自分が悲しかった。それも自分より足が遅いと思っている人に捕まったからだ!!!

走るユース科のメンバーの顔は清清しい。気持ちがいい。爽快だ。みんなで一緒に一つのルールの下、「楽しむ」ことが出来ることがなんという幸いだろう。近年、若者を取り巻く環境は劣悪である。病的ともいえよう。孤立化、バーチャル化。閉塞感、無気力感、そして敗北感。どれもこれも青少年の育成に有害以外何者でもない。しかしその日、八景島に集まったユース科にはそれらは程遠い話であった。キリストを信じる若者たちが、共に食し、共に遊ぶ。気持ちがいい。そして、その文化の中で高校3年生を祝福をもって送り出す。最高のユース科である。こういう文化がある限り、大丈夫と思った。なぜなら、そのようにさせているのは、聖霊の支配と、人々の愛だからだ。

いよいよ、高校3年生は教師となって、教会の日曜学校、ユース科において奉仕する側に立つ。期待する。主にあって。偉大な信仰の教師になってほしい。主がそれを成す。
金曜日の夜のユースの集会は主の圧倒的臨在の中、多くのユースが主に取り扱われ、主に栄光が帰された。翌日、土曜日、U兄一家の皆さんと自宅周辺を散歩した。歩きながら、入れ替わり皆さんといろいろな内容について(仕事、健康、子育て、学校、友人関係・・・)について会話が弾む。自然に話題が出てくる。お昼は、デール師が奥様のチュイ牧師と二人のお子さんヨセフとジェダを連れて彼の行きつけのイタリアン・レストランで歓待してくださった。美味しかった!しかし、それ以上に興味深いことは、デール師は小生とほぼ同じ年齢であり、昨年より教会の主任牧師になったということである。両親が開拓者であり、前主任牧師である。その地場?を引き継いで教会を導いている姿に小生は心近い思いで接した。彼も決して楽ではないようだ。しかし、肯定的に積極的に歩んでいるデール師の姿に小生は自分を重ね合わせ、自らにまたChallengeした。デール師は確かにSPARKしていた。

夕方、メインイベントである洗礼式である。U家の末娘さんが、主イエスキリストを信じ告白し、洗礼を受けた。ハレルヤ! 洗礼前に彼女と話した。『自分が罪深いことを認めますか?』彼女は少し照れながらも静かに『うん』と答える。第2の質問、『あなたは、主イエスキリストはあなたの救い主であり、十字架で流された血があなたの罪をきよめることを信じますか?』彼女は大きな声で『はい!』と答えた。大切なこの2つの質問に彼女は、自らの意思を持って告白したのを確認した小生は、洗礼場所へ移動した。U兄宅は実は大きなコンドミアムにあり、そこには途轍もないプールが広がっている。会場は間違いなくそこである。

牧師を含め家族みな揃って、「洗礼漕」と名付けたプールに飛び込んだ。そして大いなる神に祈りを捧げ、「父、子、聖霊の名によって・・・」彼女は洗礼を受けた。ハレルヤ!最高の瞬間である。聖書には、『主イエスを信じ洗礼を受ける者は救われる』と記されている。彼女は神の子になったのだ。その晩、U家では、盛大な大ご馳走がでた。言うまでもない。末娘さんの洗礼を家族中が祝ったからである。牧師としてそのような宴に同席できたことは何よりも幸いなときであった。

翌日、U家で聖餐式を行った。マタイによる福音書より、聖餐式の箇所を開いた。主イエスの十字架と復活を記念し、自らの罪が赦され、永遠の命を与えられた者として、この聖餐式を一家であずかった。パンはイエスキリストの身体をあらわし、杯はイエスキリストの十字架で流された血潮を象徴する。イエスキリストによって生かされる人生は最高である。行き来し、活力がある。希望に満ち、肯定的に人生を捉える。精力的にあゆむ力が神から与えられる。平たく言えば「タフ」になる。少々のことではへこたれない。いや人生を切り開く生き方へと変えられるのである。

シンガポール訪問は、その意味で最高にエキサイティングな出張であった。
気温5℃の成田空港を経って、到着したシンガポールは32℃だった。単純に暑い・・・木曜日の深夜(つまり金曜の午前1時)に到着した小生を、U兄が迎えに来て下さった。他でもない、今回のシンガポール訪問の最大の趣旨は、金沢キリスト教会シンガポールセルと洗礼式である。「毎月一人の受洗者!」は、今年も金沢キリスト教会の大きな宣教のビジョンでもある。イエスキリストを信じ、救われ、神の子なり、洗礼を受けるという素晴らしい恵みをどこまでも小生は大切にしたいし、拘りたい。

U兄一家がシンガポールに香港から引越し、既に8ヶ月が経った。一家は金沢キリスト教会のインターネットで私たちと一緒に礼拝を忠実にされている。また尊い献金を捧げられている。年末に、末娘のお嬢さんが洗礼を受ける、という話になり、今回シンガポール訪問することになった。1月は、韓国、イスラエルと続く3度目の海外出張であるが、そんなによく出ますね?とは誰も小生の周囲では言わない。どれほど小生が宣教に拘り、金沢キリスト教会会員に対して牧会の思いを持っているのかを教会員の誰もが熟知しているからである。その意味で、家内は小生をよく支え、祈り、応援してくださる最良の妻である。もし彼女が私の妻でなければ、小生はこのように大きく神様の働きをすることは出来なかっただろう。

明けて金曜日、シンガポールの中心地へ案内された。中心地を一望できる観覧車に乗り、シンガポールを大枠で理解する。夕方に小生の友人であり、敬愛するデール・リム師(Evangel Family Church主任牧師)からお招きを受け、金曜日夜のユースの集会にて説教をした。300人はいただろうか。少しUth Challengeよりシャイではあるが、一心に説教に傾聴した。ま、傾聴しなければ内容をキャッチできなかったのかもしれない・・・苦笑。 説教しながらも小生は金沢キリスト教会の背後の祈りを痛感していた。痛感しながら語ったという方がより正確な表現である。実は、1月のハードなスケジュールに体調も若干弱さを覚えていたが、そこは伝道者魂の所謂「気合い」だ。どんなときにもGO!GO!と内なる人が肯定的に積極的に小生を励ます。今年のUth Challengeのテーマは、SPARK your DNAである。S: super national, P: passion, A: aggressive, R: radical, K: knowというコンセプトを兼ね備え、Uth Challengeは「奇跡S」の神を「情熱P」を持って、「積極的A」に「徹底的R」に「知る・体験K」ことを目指す、というものである。そして同じように仲間に対しても同じように接する。このテーマが、小生を宣教に駆り立てる。

しかし同時に肉体は常に強いわけではない。主の力が継続的に注がれない限り、燃え尽き症候群になる。これは小生の周りでも死ぬほど見てきた。今回の体の疲れは、英語力に顕著に出た。聞き取れないのである。聞き取れないというか、体が「英語」を聞こうとしない。ということは、「話す」ことに対してもどことなく消極的であり、流暢に話すのに困難を覚えた。所謂疲れているときには、面倒くさいことは体が水面下で拒否しているか、その機能を低下させているというものである。教会でデール師に会ってもなかなか英語力が発揮できない。説教のコンセプトはしっかり頭にある。しかし表現するツールである「英語」に不自由さを正直覚えつつ、講壇に上った。しかし、背後の祈りは力強い。そこに聖霊の油注ぎがあった。ペンテコステ信仰の醍醐味は、「語る」力である。それも元祖ペンテコステは「外国語」で主を褒め称えたのである。説教は45分以上続いた。英語が次から次へと出る。発音が良いのではない。メッセージがドライブして人々に語れたのだ。この状況に語ったもの自身が一番認識していた。これは聖霊の力である!と。DNAはSPARKしている瞬間である。200人以上のユースがメッセージの後、前に出て祈りを捧げた。
⇒ 続きは次回
死海で、少々塩気のあるクリスチャンになった小生は、クムラン遺跡へ移動。このクムラン遺跡は、あの世界のスクープ「死海写本」の発見場所である。クムランとは、クムラン教団、またはエッセネ派といわれる、イエスキリストの前後にあったユダヤ教の一派である。この集団については1947年までのこの発見以前は、伝承の範囲内で理解されていた。しかし、1947年、一説によるとベトウィンの少年たちによる発見により、世界はこの死海写本を発見し、そして宗教学的にも大きな進展を遂げる。当時、聖書の最古の写本はAD4世紀のシナイ写本であったが、ここに来て、クムランで発見された写本はBC2世紀以前のものと判明。未だに、ヘブライ大学にて解読と研究は続いている。

クムランの後、エリコへ向かった。エリコは、ザアカイやヨシュア率いるイスラエルカナン入植の城壁、そして「良きサマリヤ人」など、聖書読者にとって馴染みのある場所である。現在はパレスチナ人の自治区となり、イスラエルの観光バス、イスラエルの運転手では入ることが出来ず、パレスチナのバス、アラム人の運転手のバスに乗り換えて訪れた。検問でとめられる。機関銃をもったパレスチナ兵士が我々の観光バスの中へ入り一人ひとりの顔を見る。短い時間ではあったが、冗談は禁物の空気は誰もが十分認識していた瞬間であった。バスは駐車場へ停める。昼食のためである。丘を見上げた。すると遺跡が見える。そこで、小生は神学生たちに、「ほら、見てごらん。あの遺跡は、『良きサマヤ人が倒れているユダヤ人を助け介抱し、連れて行った宿屋跡』です。」すると一斉に、バスの中から、神学生たちがシャッターを切った!!!!どんどん切った!(あの話は、例えば話しなのに・・・)しかし、驚いた!その丘の向こうにはなんと、「良きサマリヤ人 Inn」が本当にあった!!! どういうことやネン!!

ザアカイが登ったと「言われる」無花果の木の前で、お約束のように記念写真を撮り昼食をとってイスラエル領へ戻った。ほんの数キロの隔たりだが、パレスチナ自治区とイスラエルでは圧倒的に経済格差があった。多分、30-40年は違うだろう。それほど、生活レベルが違うのである。

エリコから北上しガリラヤ湖へ到着。キブツ(イスラエルの共同集団)が経営する宿泊施設に泊まった。寝室にリビング、バス、トイレと長期滞在型の施設である。大型冷蔵庫に電子レンジも装備されていた。

3日目翌朝早く、ガリラヤ湖湖畔を歩いた。『♪主はガリラヤ湖の漁師に告げぬ・・・』聖歌が一節が聞こえている。この湖畔のどこかで2000年前、主はペテロたちを召したのである。そして彼らは主の弟子となった。この同じ場所にいるこの瞬間、牧師の端くれとして、強くそのことを思わされた。

朝食後、ガリラヤ湖周辺を訪れた。主イエスキリストのガリラヤ宣教巡りである。ピリポ・カイザリヤに到着した。ここではペテロが、イエスを「あなたは、生ける神の子キリストです」と信仰告白した(マタイ16章)あの有名な場所である。当時、ヘレニズムの影響を受けていたこの北の都市では、人々はパン神(上半身は人間姿で、下半身は獣の姿)を崇めていた。その異教の神殿遺跡を見学した。またそこには泉があった。ガリラヤ湖はイスラエルの訳70%の源泉であるゆえ、ここは貴重な水源であることは言うまでもない。

バスは、ガリラヤ湖に到着。観光客にはお約束の料理が待っていた。ピーターフィッシュである。白魚のこの魚を油で揚げた料理で、ポテトフライと一緒に食した。あまり美味くなかった。しかし醤油をかけたら突然美味くなった。やっぱり小生は日本人である。

この度、まさかの恵みにより、普段講義している中央聖書神学校の授業の一環として聖地イスラエル研修に教師として同行する恵みに預かった。わくわくる反面、案外現在のイスラエルについては無知であることを準備しなが思わされた。イスラエル人は何を食べているのか?気候は?案外日本とかわらない。冬がある。一年中暑いと勘違いしていた。通貨は・・・シュケル!
イエスキリスト時代と同じ通貨単位を用いている。WOW

イスラエル行きに、まさかの韓国・インチョン空港経由で合計15時間かかった。結構しんどい。それも大韓航空は、海外線なのに、テレビモニタが座席にないのだ!
どうやって12時間半の韓国・インチョン~ルアビブ間の時間を潰せばよいのか・・・途方に暮れた。

飛行機は、ヨッパ・テルアビブに到着。かつて、カイザリヤにいたローマの百人隊長はコルネリオをヨッパにいるペテロに遣いをやって彼を家に招いた。更に、古の日においては、ヨナはここから主の示したニネベに向かわずタルシシへ船で出発した、という町に第1日目到着した。

2日目は、ツアーは、ベエルシェバに到着。そこで3000年前の遺跡を見学。
3000年前の遺跡が今でも現存することに、驚きを隠せない。医師の文化は、日本のような木の文化に対して非常に頑強に出来ている。それ故に、今でも残り続けている。それがイスラエルの基本スタンツである。

ベエルシェバは、ダビデ・ソロモン時代において要塞が築かれた。つまりは「北はダンから南はベエル・シェバまで」というイスラエル国土を最領土としての最南端として位置づけられ、それ故に、塁が築かれ、城壁が出来、騎馬隊などの守備軍が配置された。遺跡はその目的にかなった場所、つまり丘台にあった。

そこから、更に南下してあの有名なマサダの要塞に到着。学生と一緒に下から徒歩で登った。マサダの要塞は、AD70年、エルサレムで反乱が起きた際にローマ軍が鎮圧したがヘロデ大王が要塞として建設したマサダの要塞にユダヤ教の過激派と反乱軍が立てこもった。3年に及ぶ兵糧攻めにも毅然と耐えたこのマサダには、驚くほどの自給能力を備えており、1000人を超える人々が余裕で生存していた。ついにローマ軍の気さくと驚くほどの土木力によって突入可能となった直前、マサダの反乱軍は、全員自決するという壮絶な最後を遂げる。そこに、我々観光客は、ローマ軍の作った道を登った。


その晩は、マサダの要塞の接する死海に面したホテルに宿泊。リゾートホテルとして営業していたこのホテルには、イスラエル全国から中高年のイスラエル人が着ていた。イスラエル政府は、高齢者に対して年間何度か保養地へ行って静養できる支援を行っているようである!!凄い。

3日目、ホテルのプライベートビーチである死海で海水浴?!信じられないが、やはり小生もご多分に漏れず「浮いた!」 不思議である。両手両足をあげた。ラッコのように身体が浮く。少々バチャバチャしたが、浮く。深いところへ行く。立とうとするが立てない。というか、直立が出来ない。つまり、水中で茶柱のように立って浮くのである!まったく持って不思議体験である。その時、一滴の海水が目に入った!死ぬほど痛かった。一目散に退散したことは言うまでもない。

以下は次回へ続く・・・
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