メッセージ

呼び出された!博士課程の指導教授に呼び出された。あーついに来たか・・・巷で「面談」と呼ばれるものである。正直、面談を持つときまでは、あまり気持ちのいいものではなかった。

 

『ふなつ先生、今後のことですが、いかがお考えですか?』

『・・・あの・・・その・・・えーっと・・・』(お尻がカユイ)

『(博士論文の内容で)何を書くおつもりですか?』

『はい、教会です。』

『具体的には、どのような神学的視点から始めますか?教会ということですか、組織神学的展開ですか?聖書学的視点ですが?それとも歴史神学的ですか?あっ、実践神学的でしたね。』

『はい、実践の分野から開始したいと思います。・・・』

 

面談中、変な汗が出た。正直攻めるは得意だが、攻められるは苦手である。苦笑 ガンガン攻められる、問われる、困った・・・でも、面談終盤、指導教授がニヤッと笑みを浮かべて、『先生の論文のためにご支援します。』

 

ハッとした。こんなに突っ込まれるは、小生のことを思ってくださってのことだった。そう、誰が他人のために時間を取り、親身に聴こうか・・・面倒なことは適当に扱えばそれはそれで済む。世間はそんなもんである。しかし、ほっとけない!お節介か?悪趣味か?いやいや愛だ。関心である。助けたいのだ。

 

呼び出された!他でもない愛の実践だ。呼び出されたと思うは、呼ばれた側の勝手な解釈で、これは愛の実践の実。人と人が相対(あいたい)する。愛が動機でなければ誰が人のために二度と帰ってこない貴重な時間を設けようか。面談って素晴らしい!

 

エペソ4章には、全てのクリスチャンは神に「呼び出された」、と記されている。ま、新改訳には「選び出された」とあるが、大して変わらないだろう。神様もモノ好きか、暇か、どうしてこんなものを呼び出したのか・・・他にもいい人はいただろうに。よりによって私なんぞを呼び出すとは。まー裏を返せばそれほど愛されているのか・・・ありがたいことだ。

 

そうだ、小生も面談しようっと!

                金沢キリスト教会牧師 船津信成

                               

新学期、学生の襟は正される。新しいクラス、新しい教室、新しい友達に先生。新しい教科書に新しいノート。匂いがどこか違う。「新しい」匂いだ。どこかウキウキする。新年度、オフィスは緊張間が漂う。人事異動があり、新人は入社。新らしい仕事に新しい職場仲間。新しさにもどこかクタクタ感も感じるが、心機一転して踏ん張る。

 

2008年の金沢キリスト教会には新しく大きなシステムが採用された。スモールグループ(SG)である。1月は、牧師インフルエンザー、総会、韓国からの突然の特別ゲストスピーカーなどなどの理由で0回のため、2月より開始。実質上2ヶ月がたった。

 

このSGには二つの機能がある。一つは御言葉分かち合いである。説教を聴き、その恵みを分かち合う。自分なりの受け止め方。またその説教を通してSGのメンバーがどのように受け止めたのかを知ることによって、恵みがフィードバックする。恵みの相乗効果である。話し、聴き、一見逆ベクトルに見える双方の行為が、SGを単位として一つのスパイラル(渦のように回転しながら一つの方向性をもつドリルのような運動)を作る。それのスパイラル15あるので、15のスパイラルが一つの束となって大きなポテンシャルをもつ大河となって押し進む。小さな小川は束になり支流となり、そして大河を形成する。素敵な運動である。

 

SGのもう一つの活動は、祈りの輪である。教会の必要性を覚える祈祷課題と、SG内のメンバーの祈祷課題を分かち合い、共に祈る。これが祈りの輪である。金沢キリスト教会が一つのファミリーであるという証明である。メンバーの霊的なまた、実際生活の必要を覚えて祈りあう。これが教会である。

 

SGの報告書を読む。どの説教集よりも恵まれる。金沢キリスト教会のSG報告は、カルヴァンもルターもアウグスティヌスも、キリスト教史のいかなる文章よりも尊い。感動を覚える。なんといっても心がこもっている。そこには生活の営みをかんじるから。心は必ず心に訴える。心を動かすものは心だ。だから真心ということばがあるのだろう。

 

新学期、新年度、心を新しくした。この心を一新したい。それは聖霊の働きだ。聖霊はどうしようもない心をきよめ刷新することができる。故に聖霊は心の源とである。心を変えることのできるからは聖霊のみである。聖霊のスパイラルは大河のように今朝も金沢キリスト教会の中を優々と流れる。心を聖霊に委ねよう。聖霊は今日もあなたの心に語る。あなたの心を潤し癒し回復させるために。力を与え、ビジョンを与え、答えを与えるために。

                  金沢キリスト教会牧師 船津信成

                               

さくら、桜、SAKURA

今や世界中がこの名で呼ぶ。さくらは日本の心だ。ある人に言わせれば、桜の下で一同に飲食するのは日本人くらいだそうだ。昨今、メディアで報道される無作法な一部の人々による花見は、周囲の人々の心を痛めが、花見といえば、なぜか桜である。誰も梅の下では花見はしない。また、椰子(やし)の木の下や、国花である菊を観て一同に会して飲食もしない。なぜか、さくらである。

 

さくらの花はわずかな時間、美しく演出する。日本人は古(いにしえ)の時よりこの花を楽しんできた。桜に関しての言葉で、「さくら散る」など消極的な意味で用いることもあるが、「同期のさくら」など仲間意識を高める言葉もある。「同期のさくら」とてもでもないが英訳は難しい。さくらを観て、あー美しい!そう思える仲間と人は共に会し、飲食するようだ。これを花見と巷(ちまた)ではいう。

 

さくらの美しさ、長い冬の寒さに耐え、春の訪れを素敵な彩で飾る。バラのような一輪の咲き方ではない。桜の木が、力いっぱい、これでもかと言わんばかりに咲き乱れる。風にのって、普段は色の無い空間すら桜の花びらは彩る。優しい春の風は、人々の心を華やかにする。だから日本人は、さくらが好きなのだ。神妙に菊を鑑賞するもよし。情熱の象徴である薔薇(ばら)を見るのもよし。でも、さくらはどこか違う。一緒に見たい。誰かと一緒に見たい。そして時を過ごしたい。そこには仲間とか、共有とか、友情とか、信頼とか、聖書の恵みがいっぱい詰まっている。

小生はさくらだ大好きだ。

このさくらは、かき乱された心を和ませる。

冷えた心を暖かくさせる。

殺風景な心を彩る。

だから好きだ。

そして誰かと一緒にこのさくらの下に会しした。

 

さくらの季節とキリストさまの復活のシーズンと同じであることに、日本人クリスチャンの心が疼(うず)く。妙に嬉しい。さくらの美しさ、その華麗さ、一瞬の開花、そして力強さ、人々を寄せ集める吸引力。どれもこれもキリストさまそっくりだ。キリストさまには大変ご無礼仕(つかまつ)るが、日本人の心にピタッとくるものを感じる。

 

あなたの心にさくらが、咲いていますか?このさくらの下に大切な人たちと一緒に会したいですね。 

                金沢キリスト教会牧師 船津信成

12/21(日) クリスマス礼拝メッセージ:船津信成師 (Windows Media Playerが必要です)

◆タイトル:「その一事のために」
 ・Document: スライド    ノート

その日、家族・親戚が一同に会した。既に冷たくなった祖母を病院から我が家へ迎え入れ、祖母の体は動くことはなかった。当時小学校4年生の小生は、死というものを強烈に体験した瞬間であった。祖母が死んだ。紛れもない事実をどう受け止めるべきか、子どもの小生には戸惑いすら感じた。遺族が泣いていた。特に母は、自分の母親を天に送るという積極的な死の意味を知ってはいたが、悲しみという消極的な感情をも同時に胸に合わせ感じていた。

 

1の春、祖父が亡くなった。風邪をこじらし、64歳で天に召された祖父は、小生をいつもかわいがってくれていた。祖父の死は、13歳の少年には大きな問いとなった。こんなに早く召されるとは。やさしい祖父の顔がもう見れない・・・悲しかった。

 

教会勤務者になった。スタッフとして恵みの生活をしていた。秋になった。家内の体には、最初の子どもが身ごもっていた。既に女の子であることは知っていた。9ヶ月検診を終えた日、「順調です」と医師は私達夫婦に微笑をかけた。2日後、胎児の心臓は止まった。両足はワナワナト震えた。どうにもこうにも答えが無い。誰にどうして?と聞きたいが、それすら許されぬ状況だった。主に従い、献身して頂戴したものは白木の箱一つか?!悲しみと苦しみ、これ以上ないと思われる激しい苦痛が心身を打ちのめした。胎児は死体となってこの地上に産み出された。一ヶ月後、墓の前に立った。なぜか?墓も答えぬ。誰もこの質問に答えなかった。

 

Iコリント15章はキリストの復活を力強く語る。しかし、パウロはそれにとどまらない。復活は全ての者が体験するというのである!世の終わりに、ラッパの響きと共に、全ての者が神の前に立たせられる。みな甦る!すごい!再会がかなう。かわいがってくれた祖母に会える。やさしく頭をなでてくれた祖父に会える。会話を一度も交わすことが無かった娘に会える。甦るのだ!何を話そう。何を語り合おう。寄り添うだけでも十分だ。そのぬくもりにもう一度触れたい。甦るのだ。

 

そうだ。自分も甦るのだ!自分もいつかは死ぬが、世の終わりに甦る。誰と話そう?誰に一番会いたい?祖父か?祖母か?娘か?両親か?家内か?子どもたちか?大いに楽しみだ。

 

復活したら誰に会えるのだろう?誰が誰だとどうやってわかるのか?嬉しい心配がある。でも一番会いたい人がいる。どうしても顔と顔を合わせて話したい方がいる。この方は最初に甦った方。甦りの初穂である。白い衣を着、光り輝く剣をもっている。正義の天秤を持ち、真の光を照らす。この方がきっとおっしゃるだろう。「墓から出よ。甦れ。永遠の命によって我が御前に立て。そして顔を見せよ。お前の顔が見たいのだ。」

 

あー、キリスト様に会える。祈りの中でおぼろげにしか感じなかったキリスト様に会えるのだ。それも愛する家族と一緒にキリスト様に会える。楽しみだ。キリストの血を受けた者たちは、天国へ招かれている。天国へ行くために甦るのだ。素晴らしい招待だ。最高だ!それも1人で行くのではない。愛するも者たちと一緒に行けるこの喜びは、キリスト教の最高の醍醐味だ。再会は最高のシチュエーションによって演出される。

 

キリストの復活は、我が復活でもある!

               金沢キリスト教会牧師 船津信成

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