No.62『聖地イスラエル』(続き)
死海で、少々塩気のあるクリスチャンになった小生は、クムラン遺跡へ移動。このクムラン遺跡は、あの世界のスクープ「死海写本」の発見場所である。クムランとは、クムラン教団、またはエッセネ派といわれる、イエスキリストの前後にあったユダヤ教の一派である。この集団については1947年までのこの発見以前は、伝承の範囲内で理解されていた。しかし、1947年、一説によるとベトウィンの少年たちによる発見により、世界はこの死海写本を発見し、そして宗教学的にも大きな進展を遂げる。当時、聖書の最古の写本はAD4世紀のシナイ写本であったが、ここに来て、クムランで発見された写本はBC2世紀以前のものと判明。未だに、ヘブライ大学にて解読と研究は続いている。
クムランの後、エリコへ向かった。エリコは、ザアカイやヨシュア率いるイスラエルカナン入植の城壁、そして「良きサマリヤ人」など、聖書読者にとって馴染みのある場所である。現在はパレスチナ人の自治区となり、イスラエルの観光バス、イスラエルの運転手では入ることが出来ず、パレスチナのバス、アラム人の運転手のバスに乗り換えて訪れた。検問でとめられる。機関銃をもったパレスチナ兵士が我々の観光バスの中へ入り一人ひとりの顔を見る。短い時間ではあったが、冗談は禁物の空気は誰もが十分認識していた瞬間であった。バスは駐車場へ停める。昼食のためである。丘を見上げた。すると遺跡が見える。そこで、小生は神学生たちに、「ほら、見てごらん。あの遺跡は、『良きサマヤ人が倒れているユダヤ人を助け介抱し、連れて行った宿屋跡』です。」すると一斉に、バスの中から、神学生たちがシャッターを切った!!!!どんどん切った!(あの話は、例えば話しなのに・・・)しかし、驚いた!その丘の向こうにはなんと、「良きサマリヤ人 Inn」が本当にあった!!! どういうことやネン!!
ザアカイが登ったと「言われる」無花果の木の前で、お約束のように記念写真を撮り昼食をとってイスラエル領へ戻った。ほんの数キロの隔たりだが、パレスチナ自治区とイスラエルでは圧倒的に経済格差があった。多分、30-40年は違うだろう。それほど、生活レベルが違うのである。
エリコから北上しガリラヤ湖へ到着。キブツ(イスラエルの共同集団)が経営する宿泊施設に泊まった。寝室にリビング、バス、トイレと長期滞在型の施設である。大型冷蔵庫に電子レンジも装備されていた。
3日目翌朝早く、ガリラヤ湖湖畔を歩いた。『♪主はガリラヤ湖の漁師に告げぬ・・・』聖歌が一節が聞こえている。この湖畔のどこかで2000年前、主はペテロたちを召したのである。そして彼らは主の弟子となった。この同じ場所にいるこの瞬間、牧師の端くれとして、強くそのことを思わされた。
朝食後、ガリラヤ湖周辺を訪れた。主イエスキリストのガリラヤ宣教巡りである。ピリポ・カイザリヤに到着した。ここではペテロが、イエスを「あなたは、生ける神の子キリストです」と信仰告白した(マタイ16章)あの有名な場所である。当時、ヘレニズムの影響を受けていたこの北の都市では、人々はパン神(上半身は人間姿で、下半身は獣の姿)を崇めていた。その異教の神殿遺跡を見学した。またそこには泉があった。ガリラヤ湖はイスラエルの訳70%の源泉であるゆえ、ここは貴重な水源であることは言うまでもない。
バスは、ガリラヤ湖に到着。観光客にはお約束の料理が待っていた。ピーターフィッシュである。白魚のこの魚を油で揚げた料理で、ポテトフライと一緒に食した。あまり美味くなかった。しかし醤油をかけたら突然美味くなった。やっぱり小生は日本人である。