No. 47 『ペンテコステ維新』

本日、金沢キリスト教会に終日お迎えするSPゲストは、小生の母校、中央聖書神学校の元校長であられる北野耕一師(Ph. D. Sociology)である。この先生との思い出は、質においても量においても深く多くのことを学んだ。取り分け留学中の小生には、北野師とのメールによるアドバイスがどれほど語学力の低かった小生に励ましと勇気を与えてくださったことだろう。

 

北野師は、中央聖書神学校の5期生で、船津恭子師(6期生)とは2年間、紫雲漂える(校歌の出だし部分)駒込で祈祷室の出鼻を競い合うような強烈かつ熾烈なバトルを繰り広げた学友でもある。金沢キリスト教会開拓時代にも、当時神学生の北野師は金沢キリスト教会開拓伝道を助けてくださったと聞いている。

 

北野師の専門分野は社会学であるが、それは神学に対して素人という意味ではなく、社会学という視点から現実に働く神、リアリティある神を問う、という視点から、よく我々に講義してくださった。北野師の風貌からは決して想像もつかないダンジリで有名な岸和田出身の師の姿勢は、まさに「男」を噴出する気合系の信仰姿勢を、神学生に叩き込んだことは小生の記憶にしっかり刻み込んでいる。

 

小生もよく授業中、北野師とぶつかったことを記憶している。今思えばかなり悪態な学生であったと思う。しかし、師はしっかり悪態の学生を正面から受け止めてくださり、「対話」をなさった。そして「理解」に務められ、「責任あるアドバイス」を真摯に我々にほどこされた。卒業式前日にも小生は北野先生に食って掛かったことを覚えている。30分ほど北野師に、自分存念をぶちまけた。師の耳を傾ける姿勢をその時はあたかも当然のように思って、話したのだが、今思えば、よくもそんな学生ごときの礼を失した苦情にお付き合いくださったと、頭が下がる思いであり、恥ずかしさすら覚える。小生も学び舎の教壇に立ち学生を前にするとき、北野師の姿勢は、小生にあるべき「教師としての姿勢」、平たく言えば、今ある小生の「教師魂」を形成したことになる。

 

本日、北野師をお招きした目的は、ペンテコスタリズム、言い換えるとペンテコステ信仰の涵養である。我々のペンテコステ信仰を常に刷新することである。過去におけるペンテコステを正しく理解し、今日という日、我々はどうあるべきであり、未来へ向かってどのような姿勢で歩むべきなのかについて、改めて意識したい。いや実践するものになりたい。金沢キリスト教会のトレードマークは、「実行力」である。能書きたれるクリスチャン、小さなことを大きく論じる神学者、見栄を張る牧師たちが巷に少なくはない。しかし、「実行力」は、リアリティを証しする。現実の神、働く神、我らと共におられる神を信じる金沢キリスト教会は、「神の国を実行する」教会になりたい。それが我々の存在する表現である。

 

ペンテコステは、霊なる神が肉なるものの上に臨んだ、神と人とのダイナミズムの瞬間である。無限と有限の結合。それは、神の国をこの地にもたらす指名を帯びたものが許される、圧倒的な瞬間である。それを「聖霊のバプテスマ」と定義できよう。

 

本日、北野耕一師をお迎えし、師と通して語られる神の言葉に耳を傾けたい。心を開いて受け止めたい。本日、一般礼拝、Uth ChallengeBible Class3回にわたり御用される。どれも期待を持って参加ください。小生も在りし日の学生のような気持ちで、襟を正して臨む所存である。

                            金沢キリスト教会牧師 船津信成

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